小児外科医として医師の道を歩き始め、現在は18床の入院施設をもつ機能強化型在宅療養診療所「松原アーバンクリニック」で院長を務める梅田耕明医師。梅田医師は地域に根付いた患者目線の医療を目指し、世田谷区と杉並区(一部)で在宅医療や終末期のターミナルケアを提供しています。全3回にわたるインタビューの2回目も、梅田医師の歩んできた道に沿ってお話を伺います。
僕は自分でも想像しなかった人生を送っている。その時々にいろんなものに流されて、悩みながら進んできた。でも振りかえってみるとそれが自分らしい人生になっている。これからも、自分らしく、医療の新しい形を探していきたい。

梅田耕明|Komei UMEDA
専門分野:内科全般、緩和ケア、在宅医療。日本大学医学部卒業後、日本大学医学部第一外科に入局。小児外科、続いて成人の肝胆膵外科を専門に外科医として修練後、坂戸中央病院外科部長、社会保険横浜中央病院外科部長を歴任後大学との関係を離れ、地域急性期病院の医療を目指して小倉病院院長となる。2005年より医療法人社団プラタナスに入職し桜新町アーバンクリニックの立ち上げに関わった後、在宅医療、特に緩和ケアの地域での実践を目指して松原アーバンクリニックの院長となった。

(聞き手)岩崎克治|Kastuji IWASAKI
株式会社メディヴァ取締役。大阪大学基礎工学部大学院修了。分散アルゴリズム論を専攻。マッキンゼー・アンド・カンパニーのコンサルタントを経て(株)インクス入社。新規事業の立上げ、パイロット工場の工場長、クライアント企業の製品開発プロセス改革に携わったのち、2002年㈱メディヴァに参画。
第2回 自分の目指す医療を追いかけて
ーー 第1回インタビューでは、梅田耕明先生が医師になろうと思われた経緯から、医療の意味に悩まれつつも患者さんと接する中でご自分の思いを定められたことをお聞きしました。時代とともに世の中の常識、医療のあり方も変わっていったエピソードは印象的でした。社会保険横浜中央病院の消化器外科で経験を積んでおられたころはまだ医局に所属されていたんですね?
梅田:医局に所属していたけれど、教授が退官する時に僕も医局も辞めることにしました。教授は、退官にあたってポストを考えていたようで、「どうする?大学に残るか?」と僕に聞きました。その教授とは正直「そりが合わない、自分は干されている」と思っていたけど、自分が辞めた後のことを考えてくれていました。少し気持ちは動いたけれど、大学に残るということは出世を目指すということ。「これは自分の性に合わない。自分が思うようなことをやりたい」と思いました。12年かかったけれど学位ももらったし、「教授が辞められる時に僕も辞めます」と伝えました。
ーーやりたいことを追いかけ始められたのですね。どのようなことをしたかったのですか?
梅田:僕はずっと、ブラックジャックになりたいと思ってきました。
ーー具体的にはどういうことでしょうか?
梅田:どこからも見放されたような患者さんを、外科医として助けるような医療です。ちょうどその頃に、大学時代のコーラス部の先輩からある民間病院に来ないかと誘われたんです。自分の目指す医療ができそうだと思い、その病院に入ることにしました。しかし初めて病院を訪ねた時、タクシーの運転手から「あの病院に行くと死ぬよ」と言われまして(苦笑)。
ーー評判の良い病院ではなかったのですね。その中でブラックジャックをやろうと?
梅田:その病院は経営状態が悪かった。10数億の負債を抱えていた。それでも救急はたくさん受け入れていたし、スタッフも優秀でした。それにそんな状況だからこそ、自分のやりたい医療を目指せるのではないかと期待したんです。
腹腔鏡手術の導入を決めました。民間病院ではまだやっているところはなく、保険も適用されない時代でしたが、機材も一式を買ってもらい他の病院で「もう無理だ」と言われた患者さんの手術を引き受けていきました。大学病院からも腹腔鏡手術を勉強するためにドクターが出張してきたりして症例数は増えていきました。1990年代はじめの話ですから、当時としては画期的だったと思います。そしてその頃は自分が、ブラックジャックができていると思えていました。
勤務を始めて4年目、銀行から融資の条件に院長がしっかり経営をすることを求められ、医局全員で相談した結果、僕が次の院長になることになった。それからやめるまでの10年、院長職を務めました。
ーー他では対応できない患者さんを助ける。まさにブラックジャックですね。
梅田:他にもやりたいことができました。例えば電子カルテを実験的に導入したこと。自分の病院で電子カルテを全面的に使うことにし、近隣のクリニックと画像情報を共有する等の試みもしました。
電子カルテは使うだけじゃなくて、大学の医局員時代には日本の電子カルテをどうしていくかを考えるMEDISの委員にもなっていました。もともと電子工学を志していたので、そういう分野は興味があった。視認性や統計性など電子カルテに求められるものを考えていました。
さらに腹腔鏡手術でも助けられない患者さんや、他の病院で「できることがない」と言われてきた患者さんのために、緩和ケアも始めました。当時は今ほど緩和ケアが知られていなかったけれど、大学の同期にその分野で全国的に有名になったドクターがいたので、緩和ケアも意識していたんです。診療の合間に在宅医療もして、ガンの手術で転移がみつかった末期の癌患者さんが、最期をご自宅で迎えたいという時にはそのサポートもしました。
ーー ご自分の価値観から、やりたいこと、やるべきと思われたことを追求されていますね。
「けれど、ここを最後の場所にしたくない」で気がついたこと
梅田:この病院で患者さんから学んだことがもうひとつあります。ある時に患者さんからショックなことを言われたんですよ。
68歳まで企業の経営者としてバリバリ働いてきた方でした。そろそろ引退して悠悠自適な生活に入ることを楽しみにしていたけど突然ガンが見つかった。手術もしたけど肝転移していて、発見したときには末期でした。その方に「ここは良い病院だし、先生にはお世話になった。けれどやっぱりここを最後の場所にしたくない」と。
自分に命を預けてくれていた患者さんは、最期まで看取るものだと信じていましたからショックでしたね。それまで病院で設備や人員が揃った中で過ごすのが最良の選択だと疑いもしませんでした。医療者の目線でこうあるべきというのも、患者さんから見たら全然違った。
ーー患者さんの言葉から、そこに気付かれたんですね。
梅田:小金井の桜町病院や有名なホスピスをみせてもらいに行って、やはり従来の病院ではダメだと理解した。病院は病院のペースで動くのが当たり前になってしまっている。効率的により多くの患者さんを治療できるようにできてはいるが、患者さんが最期の時を過ごす場所としてはダメなんだと分かりました。

ーー 68歳だった患者さんには、どんな希望があったのでしょうか?
梅田:病院ではない別の落ち着く場所で、緩和ケアだけを受けながら自分の時間を過ごすことを望まれました。どんなに気を配っても、病院の中では病院の雰囲気はなかなか拭えません。
そこで、病院の機能を拡充するため200床の新病院に改築する計画を立てて、東京都の認可も受け、建設に踏みきるところで、別の医療法人に買収されることになりました。その医療法人は、当初の改築計画と病院機能を拡充する協定を守らず、療養型の病院への転換を強硬しようとしたため私は病院を去ることを決意しました。
その病院を辞め、別のところで自分のやりたい医療を目指そうと思いました。それが医療法人プラタナス。今いるところです。電子カルテの連携の話などでお互いを知るようになっていた用賀アーバンクリニックの野間口先生(現医療法人社団プラタナス理事長)や大石さん(株式会社メディヴァ代表取締役。医療法人社団プラタナスの経営を支援)と話をしてみたところ、僕のやりたい医療に賛同してくれました。
世田谷区松原にみつけた開業予定地のご近所のお年寄り方にお話を聞いたりして、どんなクリニック、ホスピスを作ればいいかを考えた。そしてできたのが、松原アーバンクリニックです。2005年の12月にオープンしました。ここは世田谷と杉並の近隣で訪問診療をしながら、18床のベッドもあるから必要な場合は入院できる。最期の時は、ご家族とも一緒に過ごせるようにしています。
医療が人生の大事な時間を支えている、と感じることができました。そのような医療を松原アーバンクリニックで提供しながら、月に数回別の病院で外科医として手術も続けました。外科医というのは僕のアイデンティティのうちの一つだから。やっぱりブラックジャックで居続けたいという思いもあったんですね。
ーー 今回のお話で梅田先生がご自分の信じる医療を実現しようと懸命に取り組んでこられたことが理解できました。最初に「色々なものに流されて」とおっしゃいましたが、別の見方をすれば、ご自分の考えや価値観を追求してキャリアを歩んでこられたというようにも思います。
梅田:きっかけは、偶然やその時々の色々なものから影響を受けています。けれどもその都度、何が大事なのか、何をしたいのかを考えながら進んできました。「点と点がつながって線になる」、これもスティーブ・ジョブズの言葉です。本当にその通りだと実感しています。